2011/07/01

逃げる妻、追う馬鹿の話の終わり

懐中電灯の細い光を頼りに、僕は洞窟の中を歩いていた。

頼りない光だが、スイッチを切れば身体が闇に溶けてしまいそうだった。

しばらく直進のあと、5つの岐路を右右左右左。

前回と前々回の記憶によるとそのように進めば妻にたどり着けるはずだ。

洞窟、と言うのは何かの暗喩や隠喩ではない。何も示唆していない。

現実の洞窟。暗くて狭くて冷たくて入り組んでいてサービス精神なんてひとかけらもない洞窟。

入り口以外に出口はない蟻の巣のような洞窟。これは直喩だ。

僕は歩きながら、今歩いているこの道が妻の歩いた道であることを望んだ。

僕の足跡が妻の足跡に重なっていることを望んだ。

そして妻の足跡が終わる場所に立ち、妻の背中をそっと抱きしめたいと切に願った。

しかし残念ながら、お望みの結末と言うのはいつも裏切られる。そういうものだ。

妻がいるはずの行き止まり。そこに妻はいなかった。

代わりにテープレコーダーがぽつんと置いてあり、

「PLAY ME」と書かれたポストイットが貼り付けてあった。妻の字だった。

僕は素直に再生ボタンを押した。テープは回転を始め、妻の声が洞窟内に響いた。

「あなたがこれを聞いているころ、私は既に死んでいるでしょう。」

放心。

「と言うのは嘘。あなたがこれを聞いているころ、私は洞窟の入り口に立っています。

あなたが洞窟に入っていく姿もしっかりと見届けました。」

一瞬の安堵の後、混乱。

「私の元彼に地元猟友会に所属している人がいます。

彼にあなたの浮気のことを相談していたのですが、この度正式にあなたを殺すことになりました。」

動揺。

「彼にオオカミを3匹用意してもらいました。あなたの匂いを覚えさせた、7日間餌を与えていない

飢えたオオカミです。彼らを檻から放ちます。その後洞窟の入り口、あなたにとって出口は、

ブルドーザーで破壊し、封鎖します。では、さようなら。地獄では浮気しないことね。

あ、あとこのテープは自動的に消滅するからそのつもりで。」

絶望。

テープレコーダーはボシュッという音と伴に煙をあげた。

それと同時に遠くのほうでガラガラと岩が崩れるような音がした。

僕はじっくりと的確な恐怖を与えられ、丁寧に殺されようとしているらしい。

まるで昔ながらの喫茶店店主が提供するこだわりのコーヒーみたいに。

僕の足は正常な反応を示した。つまりガタガタと震えていたのだ。

オオカミ。オオカミは何かの比喩だろうか。

たとえ何かの比喩であっても、僕に牙を剥く何かであることには間違いない。

どうすればいいのか、どうしなければならないのか、脳は正常な判断力を失っていた。

正常な判断力があり、オオカミへの対抗手段を考えられたとしても、

僕が今用意できる最強最大の凶器は、胸ポケットにあるモンブランの万年筆ぐらいだった。

オオカミに対してはあまりにも無力だ。どうしようもない。

耳を澄ますと、合計12本の足がシタシタと土を巻き上げる音が聞こえるような気がした。

僕が浮気している間に妻は、僕を殺す計画と狂気を静かに育てていたのだ。

それらが今、僕を捕らえようとしている。逃げ場なし。

洞窟の外にいる妻にとって、今の僕は半分死んで、半分生きている状態だ。

哀れなシュレーディンガーの猫のように。

ただ決定的に違うのは、これが思考実験ではないこと、

そして僕は実際に完全なる死を望まれているということだ。

妻の望む結末。それが裏切られる可能性は残念ながら極めて低い。

僕は懐中電灯のスイッチを切り、目を閉じて、身体を闇に溶かすよう努力した。

気配を消すためではない。痛みを少しでも和らげようとしたのだ。

近くで荒い息遣いが聞こえる。獣の匂いもする。そろそろお別れのようだ。

じゃあな、優子、ちえちゃん、and ミッシェル。それから出会えなかったすべての女性たち。

オオカミはもうすぐ僕の背中を見つけるだろう。彼らにとっては僕の背中が、幸福の後ろ姿だ。

最後に愛しい妻へ。

今、うずくまって泣いているのは、僕のほうだ。

そして僕の背中を見つけるのが君じゃないことが何よりも、僕は哀しい。

(完)

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