不幸はドアをノックしない。気が付くともう部屋の中にいる。
ある不幸は壁に染み付き、ある不幸はクローゼットの中を臭気のように漂っている。
そのことに気が付くのが少しばかり遅すぎた。
ある日、何の前触れもなしに幸福が玄関のドアをノックしたが、
僕はまた不幸がやって来たんだなと思って居留守を使った。
ノックされた瞬間、テレビを消し、気配を消すのには慣れている。NHKのおかげだ。
留守を確認すると幸福はドアの前から静かに立ち去る。まあこんな感じだ。
そういうわけで僕は幸福の後ろ姿も見たことがない。
そして不幸は部屋の中にどんどん充満していき、飽和状態となり、具現化し、
見間違えようのない形で僕の前に突きつけられることになる。いつもそうだ。
あるいはそれは不幸のふりをしたある種の幸福だったのかもしれないが、
今でもそれはよくわからない。とりあえず判断留保。
猿でも使えるような擬人法で、ものすごく抽象的にこれまでの僕の過去を語ってみたが、
これからは僕の現在、現在に近いところの追跡劇を語る。
語りはじめるなら今日の朝からだろう。
朝。こんばんわとこんにちわの間。
詩人が何度も書き、画家が何度も描いた、使い古され、使いまわされた朝。
「死んできます。」とポストイットに書き残し、妻はいつもいるはずの台所にいなかった。
冷蔵庫にマグネットで留められたインスタントな遺書。
寝ぼけた僕の頭でもよく理解できた。妻は出て行ったのだ。
「死んできます。」という言葉の違和感。死んだら帰って来れないだろう。
でも僕はそのインスタントな遺書に慣れていた。つまり妻のそういう行為に、だ。
なぜなら、妻がこのようにして出て行くのはもう3回目だったから。
1回目と2回目は、経理の優子と総務のちえちゃんのせいだ。つまり僕の浮気のせいだ。
今回はおそらく社内コンサルタントのミッシェルのせいだろう。
残念ながらまたもや僕の浮気のせいだ。
自分が蒔いた不幸の種は、収穫しなくたって自動的に僕の元に届く。
僕の浮気は夏みたいに定期的にやってくるものだし、
妻の家出も冬みたいに定期的にやってくるものだった。
浮気にはじまりについてはすべて優子とちえちゃんとミッシェルのせいだ
と大声で言いたいところだが、100パーセント紛れもなく僕が悪いのだ。
とあえて言っておけば、決して悪い噂は広まらないだろう。
紳士は粗相をしでかしてもダメージは最小限に抑えるものだ。
先程、慣れていたと書いたが、それでも「死んできます。」の文章、妻独特の筆圧、文字の形は、
前回と前々回と同じくらい僕の心を確かに揺さぶった。やわらかい部分に突き刺さった。
どのコピーライターのどんなキャッチコピーよりもだ。
好きな人の言葉はすべてキャッチコピーである(と誰かが言っていた)し、
僕のいちばん好きな人は、やっぱり妻だったからだ。
僕はさっそく出かける準備をした。
ナイフ、ランプを詰め込むことができるほど大きな鞄はないが、
ある程度の装備は前回の妻の家出の時に揃えてあった。
妻が死に場所に選びそうな場所は見当がついている。
前回も前々回もそこにいて、うずくまって泣いていた。可哀想な妻。
黙って出て行かなかった妻。ちゃんと書き置きを残した妻。僕を待っているのだろう。
だから今回も前回と前々回と同じように僕が妻を救うのだ。
僕がドアを開き、僕が見るべき幸福の後ろ姿。
そして僕が抱き締めなければならない幸福の後ろ姿。
それはあの場所で肩を震わせ泣いているであろう妻の背中だ。
(つづく予定)
つづかなくてもいいような気がします。
返信削除ホメテマス。
つぎで終わりますのでご容赦ください。(きのした)
返信削除期待たかまるー!
返信削除匿名はバタコ?
返信削除「期待たかまるー!」は「数式たかまるー!」の真似であってそういうことを言うのはバタ子しかいません。
返信削除(きのした)
物語に集中しましょう。
返信削除(限りなく匿名扱いを希望する匿名より)